2018/04/01

四月、桜


 桜の話題が多くなりました。西から東へ、「どこどこで開花宣言しました」というようなテレビの報道。東北にも桜、勿論千葉も。駅へ行ったりスーパーに行く途中に小さな公園がありますが、先日は、若い男性の賑やかな笑い声が聞こえました。

でも私はお花見に行き、桜の下でござをひいて、家族や友達と一緒にお弁当を食べる、という体験もないし、それを想像できません。子どもの頃にそういう体験はないし、“桜”のイメージは楽しいものではなかったからだろうと思います。或いは、思い出は過ぎ去ったものとして、悲しさが浮かぶものなのかもしれません。

 中学三年生まで住んでいたのは、お寺の本堂の隣の和室、間借りしていました。まわりは大人ばかりです。近くに住んでいる同級生とは行き来してよく遊びましたが。

 お寺の境内に大きな枝垂桜の木があり、遠くからも見えるほどでした。“桜”の言葉にそのお寺の桜の木のイメージが浮かぶのです。

 そして四月は新学期。小学校から中学校へ、中学校から高校へ、仲良かった友達とも別れます。

 でも新しい友達も出来ます。高校、大学では親友が出来ました。また、高校三年生は、受験勉強がメインになります。そんなに必死ではなかったのですが、大学に入学して解放された感じで、大学では少々思い切ったことをやろうと思い、馬術部に入りました。

 早足から駆け足になり、障害を飛ぶのもやりましたが、馬が急に止まって、何回も落ちました(手綱をしっかり持っていれば大丈夫です)。馬も、乗り手が上手か下手かも分かり、下手な乗り手にはいたずらをするようです。

 青年の集いでその話をしたら、「馬に乗っている写真を見せて」と言われ、探していますが、まだ見つかりません。

 思い出は、生きて来ただけあり、その過去は消えることなく、存在しているのでしょう。ロゴセラピーでは、「砂時計の砂のように、くびれ(細くなっている所)を通って下に落ちて溜まっていく、くびれは現在、下に落ちた砂は過去であり、過去は消えることはないのです。