2009/10/01

エコをめぐって

 地球温暖化、CO2削減、そしてエコのひっぱく性が叫ばれています。

 戦前に生まれ、70年も生きていると、身のまわり、日本社会が目まぐるしく変わり、こうなるのも当然という気がします。

 貧しい終戦前後から、高度成長期に移り、生産性を高めGNPを高め、物質的豊かさ、便利さが唯一の目標かのように突っ走ってしまいました。でも、高度成長の初期も、公害の問題が指摘されていました。海が埋めたてられ、工場がどんどん立ち、煤煙がむくむくと上げていて、「豊かになって行くだろうな」という思いと、このまま進むとどうなるのだろうという思いがありました。

 私の子供の頃(終戦前から昭和30年頃)は今の便利なもの、電化製品などは、何もなく、よく過ごせたな、と今は思いますが、当時は、別に不便だとは思いませんでした。井戸水をポンプでくんだり、つるべでくんだり、手伝いもしましたが、そんなに苦になりませんでした。(大人は大変だったかも)

 そして、おもちゃなど、既製品は少なく、その分工夫して遊びました。紙で作った着せ替え人形や、おままごとも、びんやかんのふた、茶わんのかけら、木の葉などで遊びました。小学校高学年になるとおままごとはしなくなりましたが6年生までままごとの道具をとっていて、友だちに「まだとってあるの」と笑われたことを思い出します。小学生の頃は、学校から帰った後、晩ごはんまで、友だちの家に行ったり、思いっきり遊べたと思います。田舎にいた頃は、バナナは高価なものでしたが、野いちご、ぐみ、桑の実をつみとって、その場でたべました。

 私の子供たちの子供の頃は、ままごとセットやリカちゃんなども出て来ており、有り合せでなくてもよくなりました。まだ学習塾もそんなになく、よく遊んでいたと思います。姉弟で、また友だちとままごとをしたり、外でも鬼ごっこや、崖すべりなどしたりまだゲームもそんなに普及してなかったので、友だちとよく遊んでました。今の子どもたちは外で何をして遊ぶのでしょう。

 千葉に移ってから、都心に向かう電車から見える乱立した高いビル群、このビルは永久に堅固に立っているわけではなく、劣化し、弱体化して行く、その時、どうなるのだろう、と恐怖を感じる時があります(その実例がニューヨーク貿易センタービルの崩壊でしたが)。ITも高度になり(私はついて行かれませんが)、物が豊かになり、非常に便利になりましたが、私たちの心は豊かになったでしょうか、<青年の思い>の所でも書きましたが「ゆっくりがいい」という仕事はないものでしょうか。“競争”にあわないゆっくりとした人や、上手く人づき合いが出来ない人など、流れに乗れない人たちを残して、突っ走ったのが今の社会の状況ではないかと思います。

 私にできることはすでに道草の家の屋根に太陽光発電パネルをとりつけてますし、新しいものを買わない、ということぐらいしかないように思います。でも、私の勝手な希望ですが、日本は森林の占める割合が大きい、でも、手入れされずに放ってある森林が多い、間伐材を取り除いたりして、新しい木を植えたりして森林をよみがえさせればCO2削減につながる、でもそれをする人がとても少ない。青年たち、若者たちが、森を守り、森を育てる働きをしてくれたら!と思います。

             感動する・・・

 茂木健一郎氏の「感動する脳PHP文庫)が目にとまりました。そう言えば私はこの頃、「感動したい!」と意識しなくなったな、と思いました。私は結構“感動”を求めてた人間だった…疲れた時、虚しい時など感動的な映画を見たい、と思ったり、様々な絵画、静かなものから激しいもの、オーストラリアやアメリカなどの原住民の素朴で力強い絵を見に行ったりします。そこから今の生活、仕事のために学ぶわけではなく、映画も癒されるような穏やかな美しいものばかりではなく、過酷な生活をしている、必死に生きている子供たちの映画も見たりします。そういう映画は一層疲れるのに――私は感動を求めていたんだ、と思いました。

 美しい!きれい!なども感動の言葉ですが、そうした言葉にはならないものを胸に感じる時、生きていることを肯定できる感じがします。私はそれを求めていたんだ、生きてることを肯定的に感じたい、そしてエネルギーがほしいんだ、と思います。私も含め、旅をしたい!と思う人も、新しいもの、美しいもの雄大なものに感動を求めているのだと思います。

 茂木氏も言っています。「意欲を引き出すためにも、エネルギーを生み出すためにも、『感動する』ということが重要なファクターになる」感動する対象は、何も映画や絵画などの芸術、或いは雄大な風景だけではありません。身のまわりに沢山あります。

 市川房枝さんだったと思いますが、100才位になっても「毎日10こ感動するものを見つける」と言っていました。道を歩いていても、道端に「こんな花が咲いている」とか「あの緑のはっぱの色はすてき」「あの雲は面白い形をしている」など新しい発見も一つの感動です。そう思えば、毎日新しいことに出会います。そこにささやかかもしれませんが感動が生まれます。昨日と違った何かを発見して「あ、きれい」「あ、いいな」「あ、面白いな」など、意識することで生まれるようにおもいます。

 「美しいものに触れて感動する。新しい経験や発見に出会って感動する。その一瞬一瞬の積み重ねが人生を豊かにする」わけです。そして脳のメカニズムから見ても感動は能を活性化します、また「感動する脳」とういうのは鍛えれば鍛えるほどグレートアップするそうです。(年をとっても

 さらに、何かに感動した時、まわりの人がそれを素晴らしいことだと後押ししてくれるか、否定されるかで、(その反応で)脳の働きは全く変わって来るそうです。映画館で同じ場面で涙を流したり、友だちと観て「あの場所は感動したね」などお互いに言い合うことで感動回路が強化され感動は何倍にもなることでしょう。

 どんな小さな感動でもかまいません。ぜひまわりの人と共有してみませんか。

 道草の家でも最近月1回「お好み焼きを食べよう」という会を作ってスタッフや青年が自分流のお好み焼きを作って、みんなで食べています。食べながら「おいしいね」と言い合ったりする時、ほんのささやかなものですが感動を分かち合って、ほんのちょっと生きるエネルギーを高めているように思います。

和田ミトリ