2009/10/01

青年(彼、彼女)たち、それぞれ

 最近、青年の集いも少しずつ賑やかになって来ました。

 3年位青年の集いから遠のいていた青年が(連絡はとっていましたが)また参加するようになったり、仕事の方が大丈夫だから――ということで、会報も送らずに3年位過ぎた青年がひょっこり現れて、毎月「お好み焼きを食べよう会」に参加し、7月は自分でもんじゃ焼きを作ってくれたり(自分で様々な具、材料を用意し、4種類のもんじゃを焼いてくれて、皆「こんなおいしいもんじゃ焼きを初めて食べた」と口々に言ったものでした)、或いは、アルバイトを始めたり、専門学校に行ったりして時々しか来なかった青年もいて、他の青年とはすれ違いで、2、3年ぶりに会ったということで、「久しぶりだね」と挨拶しながら「変わったね」「成長したね」とお互いに言う場面もあり(私もそれを強く感じます)、道草の家の役割と青年たちの成長を感じ、嬉しくなります。

 でも一方では一時青年の集いに参加していたのが精神的不安定さが強くなり、道草の家に来なくなった青年また親の方の相談だけで、本人とは直接会ってませんが、非常に難しさを感じる青年がいます。

 暴言、暴力がひどくなって、疲れきったお母さんに、その辛さは感じるのですが、具体的なことは何も言えず、申し訳ない気持になったりします。(後で「お子さんとは少し距離をとって自分の生活を大切にする時間をとって下さい」というような手紙を書きました)また、そんなに不安定ではなく比較的静かに過ごしていても親としてどう関わっていいか分からないまま、時間が過ぎて行く・・・という親の方の相談も受けます。他の親の会の話し合いでも、このような悩みはよく聞きますし、こういう形のひきこもっている青年は結構多いのではないかと思います。親がだんだん理解して来て、何とか話し合いたいと思っても、避けられてしまい、手がかりがない。――非常に難しさを感じます。このような家庭では、家族の会話も少い場合が多いようで、私は「今は、子供の自立とか働く、ということは横においといて、親も自分の人生を楽しんだりしながら家族がもっと気楽に話ができるような雰囲気を作ることを心がけては?それが先ではないか?」と言ったりするのですが、これもまた難しいことかも知れません。

         感情、優しさ、について

 体が不自由になって介護が必要になった方が、自分がかねがね行ってみたいと思っていた所、旅行などに連れて行ってもらった時とても喜ぶと同時にその後リハビリにも熱心になり、笑顔も多くなった、とよく聞きます。それはきっと、行きたかった所へ行ってそこで見た風景などに感動するから、感動によって生きる意欲エネルギーが出たからだと思います。

 先月にひき続き、感動、そして感情について、感動と感情の関係について考えたいと思います。(茂木健一郎著「感動する脳」にそいながら)

 感動は、感情の高まりから生まれて来るものですが、喜怒哀楽などの一つだけで生まれてくるものではなく、様々な感情が複雑にからみ合い、それが再び集約されて生まれてくるものと言えます。「一言では表現できないような複雑な感情」なのです。そして、それは人間らしい心の動きであり、人生に意欲をもたらし、人生を豊かにするものと言えるでしょう。感動を生み出すためには様々な感情を意識して感じること、自分の心の多様な動きを意識することが大切だと思われます。

 優しさは基本的には人と人との関係の中から生まれてくるものであり、一方通行だったり、押しつけになっては、生まれない、まずは相手の気持を理解することから始めることになります。勝手な思いこみでなく、相手のありのままを理解し、受けとめること、相手を思いやる気持、――相手がただ喜ぶだろうから、と勝手に押しつけるような気の使い方とは違います。

 他の人の気持ちが分かる――人間は特性としてその能力を身につけており、それはまず、感情という共通回路を通して、感情が伝わることから始まります。

 “感情”は、思考や感覚とは違って、人から人へ、脳という垣根をこえて、瞬時に伝わって行きます。相手が「悲しい」と言い、悲しい表情をすれば、「悲しいんだな」とすぐ感じます。人間はそうした感情の共感回路を脳の中に持っているわけです。自分の悲しい体験と照し合わせながら、瞬時に感じます。

 でも、その共感回路がうまく動かないのはどうしてか・・

 人間は、おうおうにして、心に抱いている感情と、表に出てくる顔の表情にくいちがいがある、ポーカーフェイスがある、ことで互いに気持ちが分かりあうことが難しくなる。分からないことによって誤解が生じたりします。まずこのポーカーフェイスの存在を認識し、他人の心というものは、見かけとは違うことを理解し、その心の状態を推測できる力を高めること。では、どうしたらそうした力を高めることができるか、そこには「感動する」こと、新しいものや美しいものに触れ感動することと同時に、人間関係の中での感動を味わうこと、人と心が通い合うことで、静かな感動を体験することが大切だと思います。

 道草の家の青年の集いが、心の交流できること、分かり合える喜びを感じ、人の気持が分かる力をつけることが、少しでもできれば、と願っています。

和田ミトリ