2017/02/01

 1月に雪が降りました。
先月号で新年を迎えるのは寒い冬が、身がひきしまっていい、と少々のんきなことを言いましたが、先日の雪は北海道がら九州まで降り、特に山陰地方は例年を越えが大雪となり道路で雪のために動けなくなった車が、長く連なっているのをテレビで放映されました。運転手の力だけではどうにもならない何時間も夜間もそのまま過ごしていました。

2017/01/06

去年はどんな年だったか、今年はどんな年にしたいか


青年たちに尋ねましたが、道草の家としてはどうなのでしょう。
  まず最近のこととして12月の紅葉狩りと、クリスマスは少人数でしたがとても楽しく過ごしました。
ボランティアの土屋さんの車で房総の中心にある亀山湖に行きました。暖かい、野菜いっぱいのいも煮(用意して、煮てある)とうどんを食べました。その後、亀山湖ぞいの道を歩いて行くと、対岸の崖は木が茂り、緑の葉の中に紅く黄色い葉がまばゆく感じました。

地域の中学生と

 先日、スーパーで買い物して、杖をつきながら帰る時、歩道橋の所で中学生と会いました。女子中学生が「荷物持ちましょう」と言ってくれたので持ってもらいました。後ろにいた男子中学生が「僕も持ちます」と言ってくれたので、右手に持っていた荷物、軽いのですが、持ってもらいました。

明けまして おめでとうございます


 春、夏、秋、そして冬となり新しい年になりました。
 日本は四季があり、四季が巡ることに時の流れを感じます。
 寒い冬に新年を迎えるのは身が引き締まっていいのかもしれません。日本は南北に長いので地域によって違うかと思いますが。
 今年も悩み多い青年達や親の方たちと一緒に悩み、楽しみ、語り合って行きたいと思います。
 今年もよろしくお願い致します。

2016/12/01

ロゴセラピー

  ふと我に返りました。私は自分の生き辛さを変えるために、そして、青年たちと一緒に考えるために、“ロゴセラピー”を学んでいるのではないか。
足の怪我もあって思うように歩けない、疲れ易い、ということにとらわれていました。
ロゴセラピーでは、人間は心身次元(身体、心理の次元)の上に精神次元があり、それは自分のためではなく、他からの要請を感じとる力であり、生きる意味を感じる力がある、ということが基本にあります。
自分のためではなく、他の人、他のことに対しての役割として意味を感じたことを、瞬間・瞬間に行うこと、行動する責任がある――。“失敗したな”と思っても、それにとらわれていると、“意味”を感じとれなくなくなります。

それぞれの生き辛さ

  青年の集いに参加しているF君は障害時の学童保育(放課後、親が迎えに来るまで)にたずさわっています。
 私は、以前にある心理学者が「知的に低い人は悩まない」と話しているのを聞きました。確かに私の経験からも、(だいぶ前のことですが)知的な面でボーダーの青少年と関わったことがありますが、「自分はダメな人間だ」と言いながら荒れていました。もっと低い青少年は、そういうことでは荒れませんでした。

ひきこもりサポーター


 私は、かねがね、ひきこもる子どもを持った親とその子とが地域の中で誰にも相談せず、そして諦めて、ひっそりと過ごしている場合が多いのではないか、と思っていました。
 でも「千葉市ひきこもり地域支援センター」が今年の2月に開設されました。(全国の県や政令都市に設置することになっています。)
 その千葉市ひきこもり地域支援センター主催で「ひきこもりサポーター養成研修」が開かれ、その講座に私も参加しました。私も、NPOとして活動している、「なの花会」「フォレストエコー」の代表の方と一緒に活動について、20分程発表しました。

11月の雪


 先日雪が降りました。11月に関東地方で雪が降るのは珍しいことであり、観測史上初めてのことのようです。学習室(いつも青年の集いをする部屋)でテーブルの前に腰かけ、正面の小さな窓を見ると、ふわっとした雪の塊が風に吹かれているのが見えました。右の南西の窓からは家々の屋根に雪が積もって行くのが見えました。外はずい分寒いだろうな、と思いながら。
自然は思いがけない姿を見せます。11月の関東地方の雪、白い屋根屋根は、とても“きれいだ!と感じました。翌日はすっかり溶けました。
 でもまた自然は“怖さ”もあります。明け方の強い地震に驚きました。ラジオをつけると、「津波警報、高台に逃げて下さい」という言葉がくり返されました。後でテレビを見ると、1m以下の津波で、被害はなかったようで、ほっとしました。

2016/11/02

道草の家を訪れた青年たち


 ひきこもりの青年の居場所として16年活動を続けて来ましたが、ひきこもりの状況は様々です。そして巣立つ状況も或いは来なくなる状況も様々です。

(その前に10年近く、個人カウンセリングで、ひきこもりや不登校の青少年と関わって来ました)

 中学校で不登校になり、学校にも行けずひきこもっていて、少し落ちついて来て(或いはゲームにあきて)「仲間のいる所に行きたい」気持ちになり居場所を探して、道草の家に来るようになった場所が比較的多いです。或いは高校や大学を出た後、会社勤めをして、そこでの人間関係が辛くなって、うつになり、やめて、家で過ごしているうちに少し落ちついて来て、「外に出なければ」という思いで、その最初の“場“として道草の家を探して来所するようになった青年。又、発達障害があって(3スペルが―)、親と一緒に参加する場合もあります。

快復の過程も様々ですし、社会参加の糧も様々です。

2016/11/01


 道草の家の庭には柿を1本植えてあります。ちょうど奥の部屋(2階です)の窓を開けると目の前に柿の実が数個色づいているのが見えます。去年も23個色づきましたが、捥ぐのは簡単ではないので、下からは届きませんし、2階の窓からは、長い柄のついた剪定ばさみを使ってとるのも、難しいかなと思ってそのままにしてました。いつの間にかなくなっていました。色づいた葉と共に落ちたのでしょう。
 今年は数も多いので是非とりたいと思います。
 子どものころ、田舎に住んでた時はおやつは庭になっている果物とか、さつまいも、とうもころし、でした。あんずを友だちと勝手にとって食べたりしました。また、栗の木がある森に近所の年長のお兄さんが連れて行ってくれて、拾った栗を生まなまま食べました。柿はしぶ柿はしぶ柿しかなく、大人たちが柿の皮をむき、干し柿にするのが、夜なべの仕事でした。
 田舎の実家は農家ではなかったのですが、庭に柿の木や梅の木などを植えていました。とうむぎ畑もありました。遠い思い出になってしましました。
 思い出ばかり語っていても仕方がありませんね。いま、若い世代の青年と関わっているのですから。
 この家を建てた30年前には、庭を畑にしてました。春菊を育てたり、コスモスの種をまいたりしました。来春は、私も足がすっかりよくなって畑仕事もできるだろうと思います。してみたいと思います。青年たちと一緒に。

2016/10/02

挫折、方向転回


 先月号では私の子ども時代のことを書き、友達とよく遊んだ、楽しかった、ということを書き、それが人間信頼の基になり、生きることには楽しいことがある、という感覚を育てた――ということを述べました。

「大人になってからはどうなのか」と(会報を読んだ方から)聞かれて、ふり返えれば、数えてみれば、7回くらい挫折し、方向転回をくり返したな――と思います。

秋は、いつ?


 10月になろうとしているのに、まだ暑い日々。雨や曇りが多かった9月でした。

道路から下の崩に短木がどっさり葉を繁らせています。庭もハーブ園を作るため、草や笹竹を抜きましたが、また生えて来ました。上から見るとハーブか雑草か分からないくらいに。

自然のエネルギーはすごいなあ――と思います。自然には善悪はなく、勝手に人間の都合で善悪をつけているだけでは、と思います。

今のところ千葉県は台風や地震の直撃はないのでこんなのんきな事が言えるのかもしれません。
千葉県は12月になってから紅葉がきれいです。やっぱり紅葉狩りをしよう――と毎年ボランティアで紅葉のきれいなところに連れて行って下さる土屋さんと話をしました。

2016/09/04

状況の意味

 ロゴセラピーでは「どんな人間でも何かの意味を実現するために生まれて来た」と言うわけですが、その意味とは?(以前にも述べましたが)日々の生活の中で考えると、自分のためでなく、「他の人の他の何かのために」今できることを感じたら、それを実行する責任がある・・・ということでもあります。それは誰が見ても(どんな国の人でも)納得できる、普遍性があるということです。日々に意味の要請(上の方から)を良心が感じ取って。

2016/09/03

子ども時代の過ごし方

 もう少し、日常的に子ども時代のことを考えれば、私の人間関係の基礎は子どもの頃、友だちとよく遊んだこと、対等な人間として大事な存在だと無意識に感じられたことだと思います。

2016/09/02

人間が生まれ、生きるとは

 7月には、障がい者の施設で、多数の障がい者を殺傷した事件、そして8月には、10代の少年がラインでのやり取りの対応が気にくわない、と言って、4人で一人の少年を暴行して死に至らせた事件がありました。
 胸が痛みます。そして「なぜ、そんなに簡単に人が殺せるのか」と疑問が湧いてきます。

2016/09/01

虫の声、鳥の声

 8月も下旬となると、ミーンミミミーンという声はあまり聞こえなくなり、ジージージとかカナカナカナという声が聞こえてきます。ピチーピチーというような鳥の声も聞こえてきます。

2014/05/01

いちょうの木

 道草の家の西の窓から、斜め向かいに大きないちょうの木が見えます。

 去年の秋に黄葉し、間もなく葉が落ち、枯木のようになっていましたが、春になった今、鮮やかな緑の若葉をいっぱいつけ、「こんなに大きかったかしら」と思うほど、窓から外を見る度、その存在が、目にとびこみます。

 そして、季節の移り変わり、自然の大きな営みを感じます。

 道を歩いていると、小さな可愛い花が通りの家の庭や道端に咲いているのにも、自然の営みを感じます。名前の知らない花が多いですが道路のわれ目に、タンポポが咲いていました。もう胞子になっているのもあり、まんまるな球、これにも感動しました。触ってみたくなり、ちょっと指を触れると、胞子が少しくずれて落ちてしまいました。悪いことをしてしまった、と思いました。3日後に通った時は、花も胞子の球もありませんでした。あの時の花も胞子になり、風にみんな飛んでいってしまったのでしょう。

“通学路”の向こうは?

 先日、「世界の果ての通学路」というドキュメンタリー映画を見ました。4つの国の、学校へ通うにも、厳しい自然と戦いながら、数時間かけて通う子どもたち。

 ケニアの兄妹――15km2時間かけて通います。象も生息しているサバンナを、象がいないか、立ちどまっては、その気配を確かめながら、走り抜けて行きます。

 アルゼンチンの兄妹――18kmを1時間半かけてパタゴニア平原を馬に乗って通学しています。

 モロッコの3人の少女たち――22kmを4時間かけて、アトラス山脈を越えて、街の学校に通います。途中足を痛めた友だちを励まし励まししながら。

 インドの3兄弟――4kmを1時間15分かけて通います。兄が病気で足が悪く歩けない。幼い弟2人が兄を車椅子に乗せて、ひっぱり、押して行く。道があるわけでなく、川の中も、止まりながら、動かして行く。また街にはいってから、タイヤがはずれてしまった。何とか修理の店に行き、タイヤを直してもらい、学校へ着く。学校ではクラスメートが待っていて、車椅子から抱え出して教室へ。危険に満ちた通学路。

 こうした4つの国の子どもたち、困難を乗り越えて通う子どもたちの表情は生きいきしています。感動を呼ぶ場面ばかりです。そしてちらしには、色々な仕事をしている著名人10余人のコメントが――「非常に感動した」というような――載っていました。

 でも私は、素直に感動できませんでした。

 ちらしには「彼らはなぜ命がけで毎朝学校に向かうのだろう」という言葉が書かれていますが、映画の子どもたちは将来に希望を持っている。(「医者になりたい」「パイロットになりたい」など)そのために学校に通うのだ、と言う。でも私が関わっている、或いは親の方などから聞いた、社会に出られない青年たちは(いつも頭の片隅にあります)こうした希望を将来に持てない、子どもの頃から抱けない、そして不登校になったり、退学したり、仕事を続けられなかったりすると、一層、「自分の将来には何もない」と思ってしまう。そういう、将来に希望、“なりたいもの”がない青年たちの苦しみ(諦めてしまったり、も)をどう考えたらいいのでしょうか。

子どもの心から大人の心へ

 精神科医、田村毅先生の講演を聴き、著書も読んで、考えさせられ、そして納得することが多々ありました。印象に残ったことをお伝えしたいと思います。

 まず、他の人と関わらずに殆んど自室で過ごしている青年、少年たち。その生活を本人が選んだのだから親も受け入れてあげた方がいい――という考えに疑問を持っていましたが、田村先生は本人は“自立”を望んでいる、親はそれを信じて関わるべきだと言います。(自立は社会に出て働いて収入を得る、ことばかりでなく、ボランティア活動なども)。

 そして、ひきこもっている青少年は、思春期を乗り越えられず、思春期が続いている状態だとみています。

 思春期とは、「子どもの心」から「大人の心(社会的自我)」への移行の期間です。その移行には時間がかかります。それをもう少しくわしく言いますと、

o親が、(親のエンジンによって)やる気を起こしていたのを、自分自身のエンジンに切りかえる作業をする

o他者との関係性、自分を大切にしながら、他者と折り合う力をつける

o自己責任・・・ものごとがうまくいかなくても家族やまわりに責任を転嫁せず、自分で責任を負う覚悟を持つ。

o自己万能感からの決別・・・100%の自分でいることを諦め、60~70%でもかまわないと受け入れる

o家族という居場所から巣立ち、ソトの世界に安心できる場所を自らの力で見出す。

ひきこもっている青少年は2つの自我、「子どもの心」と「大人の心」の間で揺れ動いています。

 そうした自分の子どもに対し、親はどう関わったらいいのでしょうか。

 今の状態を理解する必要はありますが、「大人の心(社会的自我)」に向かう過程にいることを信じ、自立を信じて、少しずつ距離をおくことが必要です。少し離れた距離から支えるようにする。いつでも守ってあげるではいけない、「自分で何とかやらなくては」と思えるようにする・・・。

 そして、責任を親が引き受けなくてもいい、ということです。

 子どもが親を責めても「ダメな親だ、だった」と自分を責めるのではなく、誰でも、限界や欠点はある、と認めた上で前向きに生きることが大切です。いつまでも責任を親が引き受けていたら、自己責任を持つ大人にはなれない、ということだと思います。

親の安心感、子どもの安心感

 でも、親自身が安心感がないと、子どもから距離をとれず、すべて子どもに合わせることになりがちです。そして、親の気持は子どもにも伝わります。

 誰でも完璧ではありません。いいところもダメなところも半々くらいにありますし、また相手との組み合わせもあるでしょう。

 また、家族に問題があるのも当たり前です。でも、親、家族が一番身近におり、関わる機会が多い。勿論、他の支援が役立つこともあります。親、家族が、カウンセリングを受けたり、親の会で話し合ったりして、親の心の安定を保つことが大切です。

 親自身が十分な安心感をもつことが、そして子どもに対する信頼感をもつことが、こどもに安心感を与えます。

 安心感が持てれば、自己肯定感が持てれば、子どもも思春期を少しずつ抜け出して、“自立”の方向に行くのではないでしょうか。

 なかなか難しい場合も、歩みも遅い場合もありますが、――思春期の中にとどまっていることを理解しながら、子どもも心の奥では“自立”したい気持があることを信じて、今、親ができることは何か――を考えることができれば、と思います。

(参考文献「ひきこもり脱出支援マニュアル」田村毅著 PHP研究所)

2014/03/01

里海

 先日、「里海」という言葉をテレビの番組「里海SATOUMI――瀬戸内海」で知りました。



 「里山」については、かなり前から「里山をとり戻そう」という活動もあり、ずっと以前ですが参加したことがあります。



 「里海」は、人と自然が共生する沿岸海域のことで、高度経済成長期に工場の排水で赤潮の大量発生などで、“瀕死”の海に化した瀬戸内海が、美しい海をとり戻した、という内容でした。



 瀬戸内海は13年間過ごし、子育てをした(長女が11才まで)所で、思い出も多い所でもあります。



 高度成長期まっただ中で、夫は石油化学の工場に勤め、家族は近くの小高い丘の上の社宅に住み、そこから毎日、工場と海を見ていました。そして工場の排水の公害が問題になって行き、同時に瀬戸大橋が本州と四国を結び、「夢の大橋」として、喜びの声もあがりました。



 その後、千葉の方に移り、瀬戸内海のことは遠くなりました。



 テレビでは「瀕死の海といわれた瀬戸内海がなぜよみがえったのか」――海の中に様々な生き物が泳いだり歩いたりしている姿が美しい映像で描かれていました。



 それは、漁夫たちが「カキ筏」を作り、カキを養殖することでカキの濾過能力を発揮させたことによるものです。また海草の種をまき、増やすなどの努力も。



 カキや海草などが海の自然を復活する――ということを、その地域の漁師の人たちが意識して努力した、ということも素晴らしいですが、自然そのものが自然を復活させる(もともとあったわけですが)、自然の力はすごいな、と思いました。



 つけ加えるならば、カキ筏で作業している青年を見て、社会に出られない青年も、ああいう環境で過ごしていれば、ああいう姿でイキイキと仕事ができるのに――と思いました。



生きる価値と意味(2)



 先月、ロゴセラピーの教育観を述べましたが、分かりにくかったかと思います。



 親も教師も、子どもに伝えたいことを実践しているか、「自分らしく生きるのに必要な基本的な生き方」をしているか。日々の生活の中で”意味”を感じ取れるか――ということが求められる、ということですから。



 私自身も関わっている青年に対しては親や教師に近い立場におり、問題を感じたりする時、「これには何か意味があるのでは?」と、なかなか向えず、答えを見つけられず、落ちこんでしまいます。



 大人になって長くひきこもっていると(他の人と殆んど交わらない、或いは仲間と交わっても社会に出られない)、親も子もこうした状態を社会はなかなか受け入れてくれないだろう、と思いがちで、社会に出て仕事をするなり活動することでなければ、”生きる意味や価値”はない、とどうしても思ってしまう。仲間と交流できれば、それだけでもよい、と思う親の方もいるようです。



 本当は社会に出れば自分の能力を発揮できるかもしれない、でも社会に出るのは、人と交わるのは怖い、という青年もいるでしょう。日々の生活の中で「意味や価値」を親子で見出すのは難しいかと思います。



 でも、ロゴセラピーの教育観は大人になる前の子育て中の親や教師に向けて、「基本的な生き方」を考えてほしい、というものですから、10代のお子さんを持った親の方には比較的受け入れ易いかと思います。「ロゴセラピーを学んで、親も子も一緒に生きる意味を見つけることが元気になることだと思います」というメールを頂きました。



 そして、ロゴセラピーでも「責任」ということも大事なことだと言います。子どもの頃から「責任」をもつ体験、自由に選択したのであれば、その結果に責任をもつ――ということ。また、子どもも、それぞれの時期、それぞれの状態で才能に応じて「何かをする課題と責任」があることを体験する必要がある――ということです。



 私は子育て時あまり“責任”ということは言わなかったように思います。私自身も思春期親から「ああしなさい」「こうしなさい」と、言われたことをして、「責任」をもつという意識はなかったと思います。



 大人になって、だんだん嘘をついて言われたようにはしなくなりましたが、それは自分で責任をとるしかなかった、とも言えます。



 いつも親や教師の言う通りにして、自由に選択できなければ、「責任を持つ」ことも体験できないでしょう。



 そして「それができるかできないか」、ではなく「やりたいかやりたくないか」を大事にすることがその人の意志の強さを高めると言われます。”やりたい”として自分で選んだのであれば、辛いことが起きてもその辛さをこえて努力しなければならないことを体験できるでしょう。



 「今自分は何をすることに責任を持っているか」を感じとる力をつけることも大切です。



 たとえば、学校の宿題があるけど、ゲームもしたい、――という時、どちらを先にやるか、を考えさせる。小学生は、学校で勉強することが大事な役割(勿論そればかりではありませんが)ではないか、を問いかけることなど。



 もう一つ、みんなで考えたいこと――親として子どもに愛情いっぱい注ぐことはとても大切です。注がれた愛情があふれれば、子どもは他に愛情を注ぐことができるかもしれません。でも、いつも受身ではなく、自分が親や家族などに愛情を注ぐ機会を作ることもとても大切だと思います。



 そして殆んど家にいる子どもに「今出来ることは何だろう」「やりたいことは何だろう」と問いかけることはできると思います。やりたいことを一生懸命やり、楽しむことによって、自分を肯定したり「自分がそれをやる役割がある」という「生きる意味と価値」を感じとる力もつくと思います。



(参考文献「教育のロゴセラピー ロゴセラピー入門シリーズ5」勝田茅生著 システムパプリカ出版)

大雪

 2月は、2週続けて週末に大雪が降りました。

 関東地方ではめったにない大雪で、多くの道路で車が動かなくなり、雪に埋もれたり、山あいの集落では孤立からなかなか抜け出せなかったり、被害の大きさが連日報道されました。

 私の子どもの頃、福島の田舎にいた時は、大雪だと兄が雪の階段を作ったり、雪のトンネルをつくってくれたり、楽しいものでした。そして祖父が作ってくれたちいさなソリで、坂をすべるのも面白かったです。

 また、私が中学の教師をしていた時は、雪が校庭にかなり積もったのを見て、授業をやめて生徒達と雪合戦をしたことを思い出します。

 今回の雪の日、風邪気味で全く外に出なかったので、子どもたちが道や校庭で遊んだりしたのか、見ませんでした。報道も被害のことばかり。どうだったのでしょう。雪がとけ出した頃外出しましたが、道路沿いには雪だるまも見かけませんでした。

「生きる」とは・・・

 ひきこもっている青年たち(仲間との交流ある場合も)の多くは、一旦不登校や退学した者は、また、働けない時期が長くなった場合も、「自分は失敗した人間、社会では認められないダメな人間」というレッテルを、自分自身でも貼ってしまっています。親御さんの相談でも、「子どもが『自分には生きる意味がない、どうしたらいいのか』と親に訴えてばかりで困っている」と言われることがあります。

 ロゴセラピー入門シリーズの「教育のロゴセラピー」を読み始めましたが、「教育とは何か、教育の目標は何か」を深く考えており、考えさせられる言葉が多くありました。

 まず「何をおいてもまず子どもたちに教えなくてはならないことは、どんな状況の中でも人間が生きることには価値もしくは意味がある」という言葉です。そして現在の教育は「社会生活に必要な基礎知識を与える」ということが圧倒的に重視され、「基本的な生き方の態度を示唆する」ことについては軽視されている――という言葉。

 はっとしました。私たちは成績、学歴のみを考え、生き方については子どもたちに殆ど伝えてないように思います。

 私も自分の子どもに「生き方」「生きる意味」を一緒に考え、何かを伝えたか――とふり返ると、殆んど何も伝えてなかったと思います。そして私も親から「生き方」について特になにも伝えられなかった、と思います。

 ただ、終戦前後の幼少期は、友だちと思いきり遊び、楽しい思い出ばかりです。母親が畑できゅうりやとうもろこし、さつまいもなどを育てていて、それを採りに一緒に行くのも遊びのうちだったようです。

 9才で都会に来ても“勉強”のことはあまり重視されておらず、家でも学校の休み時間でも、ゴムとび、なわとび、毬つきなどして遊んでいました。中学になるとそういう遊びではなく、放課後3、4人で友だちとおしゃべりするのが楽しかったです。

 高校ごろからは、1人2人の友だちと心の悩みなどを話すようになりました。そして小説を読んだり、美術館や画廊などで絵を見たり、その楽しさも感じるようになりました。でも前にも書きましたが、コンプレックス(主に自己表現に対して)が強く、自信がなく、大学生の頃、「自分が生きる意味があるのか」というように疑問を感じ、でも「ペシミストのまま、不条理な人生を生きることかな――」と思ったり・・・。でも幼少時の十分遊んだ楽しさも残っており、生きることは辛いこといやなこともあるけど、楽しいこと面白いこともある――という思いもありました。「好きなこと、興味があることをしながら生きたい」と思いました。

 その後、コンプレックスを抱きながら、そして子育てしながら、興味あること、“したい”と思うことをして来たように思います。今の仕事は自分に合わない、もっと自分に合うことをしよう――思いながら。「合わない」と思った時は辛い気持になってましたが、我慢して続けようとは思いませんでした。

 さて、自分が子育てする時、私のそうした生き方は伝わったかもしれません。成績、学歴主義には疑問を持ってましたので、子どもたちに「勉強しろ」とは言いませんでしたし、楽しいこと好きなことをしていいという感じで。私も自分が好きなことをする時、大学に入り直し、建築の勉強をした時には、広島県の瀬戸内海の島に調査に一緒に連れて行ったりしました。

 色々心配なこともありましたが、3人の子どもたちは今、何とか自立した生活をしています。それぞれの生き方で。

――生きる意味の価値――

(「教育のロゴセラピー」より)

 では、私たちは子どもたちに「生き方」をどう伝えたらいいのでしょう。

 ロゴセラピーの教育観を、私のとらえた部分ですが、印象に残った言葉を述べたいと思います。

 まず「それぞれの人間がその人間がその人しか持ってない『唯一性と特殊性』がある。・・・どの子もそれぞれに異なる性格や能力、あるいは過去の経験や将来の夢をもっていて、それだからこそ、どの子もかけがえのない価値ある人間として人生のスタートラインに立っていることを理解することが教育の基本であるべき」――という言葉! 私たちは、余りにも「人と同じように」「人よりも高く」と思いすぎてはいないでしょうか。 性格気質も違いますし、色々な能力にも差はあります。

 また「人間は自分の置かれている状況で自分に最も合った行動の可能性を自分で選ぶことができる。『どの可能性の中に最も大きな意味があり、深い価値があるか』を感じることができる、にんげんは意味というものを行動の中心にもつことができる――『意味』を中心とする教育が大切だ」――と言います。

 そして「どんな人間も何かの意味を実現するためにこの世に生まれて来たという『根源的な信頼』を親も教師も持つことで、子どもも自分でも誰かの役に立つことができるという具体的な体験をして行く」・・・「人間らしく送るために必要な基本的な生き方を考えることが教育の大切な目標」だという言葉。 親や教師自身もそういう生き方をする――というのは、そう簡単ではないと思います。

 でもそれは、ささやかなことでもいいのです。野原や庭に咲く花々に感動することも、伝えられて来た文化に感動し、大事にすることも。

 また、「瞬間瞬間に意味を感じとる感受性、キャッチする感性を豊かに、強くする」ができたら!「このことは何か『意味』があるのでは?――と意識することを少しずつできていけば、と思います。

 数値では測れない、それぞれの価値、生きる意味がある――ことを何とか青年たちに、親の方に伝えたい、私自身もそういう生き方を身につけたい。これからも一緒に考えて行きたいと思います。 数値で測れることでその人の価値を決めるのではなく、不登校や退学を働いてない期間があるなど“失敗”だと思わないで、――それぞれが意味をもって生まれた、自分の生活の中で意味が与えられている。自分で意味を感じ取る力がある――と思えたら!

2014/02/01

水仙

  訪問先に向かう途中、道路のコンクリートの割れ目から水仙の真直ぐな葉が数本伸びているのが目につきました。「強いな」と心の中で思いました。1月末、寒い日です。でも道路沿いの家々の庭に目をやると、暖かい日差しがある方には、水仙の花が咲いているのが見えました。もう春が近づいている、「自然は季節を忘れない」なんていう言葉が浮かんで来ました。

 今年の冬の寒さは耐え難いものを感じて、今年は特に寒いのか、・・・体力的に落ちてきたのか、など考えますが、年相応かもしれません。はがゆさも感じますが、これも”自然”なのかもしれません。庭の雪柳にも小さな芽がびっしりついているのが見られ、春は”遠からず”やって来るでしょう。もう少しの辛抱です。


「少女は自転車に乗って」

 若者たちは、これから体力、精神力も伸びて行くはず、今”ちぢこまって”いても”春が来る”と信じたいのですが、なかなか難しい面があります。自分には”未来がある”と思えない――家にひきこもっていても、他の人と交流がある場合も――若者が多くなっているように思います。

 去年11月の会報で”孤立無業”について述べました。

 社会の中で、「自分は受け入れられていない」「自分の居場所がない」と思ってしまう・・・なぜでしょう。

 先日、サウジアラビアの映画「少女は自転車に乗って」を見ました。そこでは女性は様々な面で自由を奪われています。女の子も外では頭から足元まで黒いサリーを着けなければならない――など。

 でも、ある小学生の女の子は近所の男の子が自転車に乗っているのを見て、「自分も乗りたい!お金をためて買うんだ!」と思い、お金をためることを色々考えました。最後は、分厚い伝統の詩集を暗唱する競技に挑みました。一番うまく暗唱できた人に賞金が出る、ということで、勉強が苦手な方なのに、一生懸命覚えて、練習して、一位になりました。

 そして、自転車屋で目に付けていて、とっておいてもらってた自転車を買うことができ、それを乗りまわしている少女の生き生きした得意げな表情!

 他にも映画やテレビで、貧しい国の子どもたち(若者の多くも)が生き生きして、キラキラした目をしているのを見ます。

 どうしてなのでしょう。(日本との違いは?)

 色々なことが考えられますが、一言簡単に言うと、「他と比較しない」ということかと思います。

 日本では他と比較して「自分は劣っている」と思うことが、小学生の頃からあるようです。中学生ではそれが強くなって、勉強やスポーツだけでなく趣味的なことも比較しがち、或いは”合わせる”ということが多くなっていると思います。

 私の子どもの頃はそんなことはなく、友だちは”遊び相手”で勉強など比較しないで、一緒に遊べばよかった時代です。

 今は、一度不登校になったり無職になったりすると「もう自分はダメだ」と思ってしまう・・・ことが多いです。

 それからもう一つ、この頃感じるのは、中近東の国々を旅するドキュメンタリー番組で、旅人が歩いているその地の人に色々尋ねると、「どうぞはいって家の中を見て下さい」とか「一緒にお茶を飲みましょう。(食事の場合も)」などと気軽に旅の外国人を招き入れるのを見て、”人への信頼”があるのだなぁ――とつくづく思います。


――他の人、他の何かに役に立つ――

 先月号では、(ロゴセラピーでは)自分だけに、自分の気持だけに目を向けないで、「他の人に他のものに目を向ける」ことについて述べました。そうした時に、自分が何かの役に立っている」或いは「人に助けられている」ことに気づくだろう――と。

 でも、その”役に立つ”ということは、そんなに大きなことではなく、子どもを育てるとか、親の世話をするとか、職場で自分に与えられた仕事をする、ということでもいいのです。「もっと社会に役に立つことをしたい」という思いも大切ですし、その思いが自分に力を与えてくれるかもしれません。(私の文に感想を送って下さった方がいて、嬉しく思いました)


――自己距離化――

 自分の視線を「他の人に他のものに」向けると同時に自分を少し離れた所から距離をおいて見ることも大切だ、とロゴセラピーでは言われています。離れた場所から自分を見たら、どう見えるだろうか――どういう自分か、客観的に見ることができ、何か気づきが起こるでしょう。この”自己距離化”の能力は他の動物にはなく、人間にしかない能力です。












――精神次元――

 「人の役に立ちたい」という思いが無意識にあって、瞬間的に行動する――ということ、例えば、子どもやお年寄りが転びそうになったら瞬時に助ける、ということを誰しも、自分がしたり、他の人がしたりしていることを見かけるでしょう。

 それは、ロゴセラピーでは人間には「精神次元」があるからだ、と言います。

 動物には身体次元(本能的なもの、体を動かしたり、体で感じるもの)、心理次元(優しさなどを感じたり・・・)はありますが、精神次元はありません。なかなか説明するのは難しいですが(私も学びの途中です)、ゼミの資料から3つの次元の関係図を転載させてもらうことにします。